美景と旅の文化人類学 美しい風景はなぜ美しい?  江戸川大学オープンカレッジで講演

美景と旅の文化人類学 美しい風景はなぜ美しい?  江戸川大学オープンカレッジで講演

 風景はそこにあり、私たちは自分の目で風景を見ており、美しい風景は美しく見えると思っている。

 しかし大人と子供でも見ているものは違うし、雪を「白魔」と恐れる雪国の人は雪景色を美しいなどとは見ない。

 庶民の生活のある風景こそ真の風景とした民俗学者柳田國男の目と、アジア侵出の時代の国粋主義者志賀重昴の目で見た日本の風景も違うように、風景を見る目には実はフィルターがかけられているのだ。

 例えば、ほとんどの日本人がたった10秒でお決まりの富士山の絵を描けるのも、各地の山を〇〇富士と見るのも、いつのまにかフィルターを学習しているからだ。

 また柳田國男が「文芸の専制」と批判したように、私たちが訪れる名所の多くは古来芸術家の目で選ばれた「歌枕」なのだが、さらにフィルターには「舶来品」も多く、日本三景、大和三山、日本百景などは中国の「名数」起源だし、近江八景、金沢八景なども中国の文人の目の直輸入だ。

 明治以降の「日本アルプス」、「日本ライン」(長良川)、そして武蔵野の雑木林を美しいと見るのもヨーロッパ人の目、戦後の「東洋のマイアミビーチ」(江の島)、「百万ドルの夜景」(熱海)、そして「東京マンハッタン」(お台場)もアメリカ人の目の直輸入だ。

 つまり私たちは必ずしも自分の目で見て、自分の目で美しいと思っているわけではないし、このように考えると、体ごと行くべき場所に運ばれ、見るべきはこれ、名物はこれ、聴くべき音楽はこれと、視覚、味覚、聴覚までもすべてが決められている「パッケージツアー」や「定期観光バス」は、まさに日本人の風景の見方、旅のしかたの集大成というわけだ。

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